よく、日本語学校では学生(留学生)に、作文を書いてもらいます。何を書くかといえば、中級くらいだと身近なテーマです(趣味とか、日本に来たきっかけとか・・・)。しかし、上級になると、やや難しいテーマだったりします。
そして、よくあるテーマがこれです。
「異文化の人と わかりあうことはできるか?」
みなさんは、どうでしょうか? わかりあうことはできますか?
私なら、「・・・できない。なぜなら・・・だからだ。」といった感じで書きます。
そもそも「わかりあう」というのは、どういうことでしょうか? 友達になることでしょうか。このお題! あまり具体的ではありませんが、そこが、良い所かもしれません。なぜなら、ひとそれぞれ違った解釈をするので、十人十色の意見が出てくるからです。
ただ、やっぱり、~マイナスな、ネガティブなことは言いたくないので 2/3 くらいの学生は前向きな気持ちをこめて「わかりあえる」と書きます。書く時の精神状態による、ということかもしれません。私の率直な感想は「できる」にしろ「できない」にしろ、どちらも正しい、ということです。
では、よくある意見を見てみましょう。
【できる】
・気持ちの問題だから、誠心誠意つきあえば、わかりあえる。・つきあう時間に比例する。・自分の仮面を外せば、できる。・言葉の解釈(理解)だけの問題。
【どちらでもない】
・心の距離(つきあいの深さ)に比例する(敬語を使うと遠くなる)。
【できない】
・生まれた場所が違えば、文化は違う。・情報として異文化を知る(観光での体験など)ことはできるが、本当の意味で自分の中に取り入れることはできない。
長い作文の結論だけを取り出すと、だいたい、こんな感じになります。どう思いますか?
??? これは、外国人と日本人との間だけの問題だけでしょうか。
そうです、これらは「外国の」文化の理解だけではなく、日本国内・日本人どうしの間でも同じことが言えると思います。日本でも 地域によって文化が違います。もっと細かく見ると、地域が同じでも家庭によって、世代によって、性別によって違うかもしれません・・・。
私の個人的な意見は、~「100%の理解は無く、60% の理解でも十分素晴らしい。」 となります。家族とかとても近い人は、また少し違う話、議論になるかとは思います(近ければ近いほど、「違い」が表面化するからです)。しかし、「わかりあえる」度合いをアップさせていくことはできるし、誰に対してでも、その可能性を信じたいものです。
それには、前提として「みんな 違いがある ことを認識し、そこから一つずつ、理解していく」ことが必要だと思います。コミュニケーションの中で、その前提が ないと「初めから、終わっている(オワコン)」状態になり、それが、ずっと続きます。「自分の価値観の押しつけ」とも言えますが、どこまで行っても(時間をかけても)ゴールにたどり着くことはない、ということになってしまう と感じます。
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